東京23区の区営歴史資料施設を、あいうえお順で訪ねる、東京ブラ散歩。第2弾は「荒川区」ー。

荒川区は行政町名が7つしかありません。すくな!
でも戦前まで、人口はなんと最高で32万人もいて、都内(当時は府内)で最多だったそうな。その要因は、ふるさと文化館の展示でよくわかった。工業の町だったのだ!

都電荒川線に乗って荒川区へ

ということで、風の強い日、
荒川区へは荒川線でいかなくっちゃね
としゃれこんで、都電早稲田駅からのスタートとなりました。

都電荒川線早稲田駅

実は都電全線を乗ったのは初めて。最前席はガキに譲りましたが、前の方に座って約1時間の旅を楽しみました。
しかし、アップダウンが激しいね。飛鳥山までの間は上ったり下ったり曲がったり。
結構、人もいっぱい乗っては降りて、ま、その大半はじじばばだけど、地元の足になっている感は大いにありだわね。
あらかわ遊園前からは、ベビーカーを押したママとか幼稚園くらいのガキどもも加わって、車内は発展車両並みの混雑になったものの、ほとんどが町屋で降りてしまい、終点三ノ輪橋に着くころにはガラガラでした。

旧王子電気鉄道本社

電車を降り日光街道に向かうキッチュな商店街を抜けて振り返ると、いい感じの建物を見ることができます。
今は写真館が入居していますが、以前は旧王子電気鉄道の本社ということです。
こういう、縦長な窓って素敵よね。

上野戦争の遺構「黒門」

自転車が我が物顔で突っ走る日光街道を北上し、ふるさと文化館へ向かう途中に、百観音で知られた円通寺があります。
くもじいも、「なんじゃこりゃ」と驚いたへんてこな塔が寺の建物の上に乗っかってるのでとても目立ちますが、見どころはそっちじゃありません。

小塚原の由来となった首塚や彰義隊の墓や碑も、なんだかあまり管理が行き届いていない感じ。それでもやっぱり、上野戦争のあとこちらに移設された、寛永寺黒門は目立ちます。
新材に変えたり補修を施したので、戦いの際の弾痕は一部新たに開けたらしいのですが、その数から想像したら激しい戦いだったのだなあ、と実感できるわよ。

上野戦争の遺構「黒門」

荒川ふるさと文化館が伝えたいこと

円通寺をあとにし、日光街道を北上。旧山谷通りを通ると正面に本日のメインである、荒川区立荒川ふるさと文化館に着きます。図書館と同居なので、入り口から左に行くと受付があって100円払います。やっすい!
訪れた時は企画展はやっておらず常設展のみ。お客さんも、ガキが2人、出る間際に親子連れが一組来ただけ。やっぱり平日は空いてていいわあ。

先史、古代、中世の展示は少な目。これは東京の宿命でしょうね。なんてったって都からみれば辺境の地だし、都市化が進みすぎて発掘しきれていないわけで。
そのかわり、江戸直前からはたんとある。特に面白かったのは、「小塚原村絵図装置」。3枚の絵図を画面上で1枚につなぎ重ねてみられるもので、手前のタッチパネルで、このあたりの様子を結構細やかに説明してくれてる。
千住大橋両岸の河岸復元模型は150分の1でそれなりに立派だけど、作りこみが雑ね。

こんなもんかしらねー、って進んでいくと近代。このエリアで、荒川区が近代工業の発展と手工業で大変賑わい成長していったことがよくわかるわ。
明治12年創設の日本初の毛織物工場である「千住製絨所」が、いかにこの地で重要だったかもわかるし、展示室の内装がなんで赤レンガが多く使われてるのもわかるわよ。

そして、震災と戦災。尾久の首都大学東京荒川キャンパス当たりの広大な土地に、旭電化工業株式会社尾久工場があって、昭和17年4月の東京初の空襲の標的にされたのも初めて知ったわ。昭和17年なんて、開戦した翌年じゃないの。

戦後の復興から高度成長期のあたりの、コンパクトにまとめられたビデオを見てると、どこからか、
「じゃねーまたねー」
と子どもの声が聞こえる。やーねーガキが騒いでいるんだわ、と嫌な顔してたんだけど、ビデオを見終わって次のエリアに入ったら、その声がした理由がよくわかったわ。

荒川ふるさと文化館「昭和41年ごろの暮らしと景観」エリア

昭和41年ごろの暮らしと景観を再現したんですって。超アゲよ、これ。
照明によって朝から夜までの明かりを再現して、それに反応する軒先の灯りや街灯なんかも、いい感じなのよ。
足立区と新宿区にも、文化住宅や都営住宅の再現はあるけど、景観を再現した点は大変ほめるに値するわね。

さてこの後は、今回のもう一つのテーマである、荒川区区境=音無川跡をたどる旅は後篇にて。